新撰組隊士-
近藤勇や土方歳三と同じ武州多摩の出身。新撰組に憧れ入隊を切願し京に登り正式に入隊を果たす。会津戦争を経て、函館に渡り土方の死後、降伏-
絵を描くことを好んだ中島は、新撰組同志たちを描いた『戦友姿絵』を後世に残す。
オランダ留学の帰国後、海軍副総裁となる。明治元年、蝦夷地(えぞち)函館に独立政権をたてるが翌年降伏-後に特赦される。特命全権公使としてロシアと樺太千島交換条約を締結。
後に、逓信、文部、外務、農商務の各大臣を歴任した。
新撰組隊士-
新撰組一番隊隊長。近藤勇や土方歳三とは同門であった。不治の病とされた結核に感染。 池田屋事件の最中に肺結核の発作に見舞われ吐血したという。新撰組・最後の戦いも肺結核に冒され悔しくも病床で耐えた。
1868年夏、近藤勇の斬首から2ヵ月後に力尽き死す。
新撰組隊士-
14歳で新撰組に入隊。土方歳三の小姓として函館五稜郭まで土方に付き添う。五稜郭で死を覚悟した土方に小刀と写真を託され、五稜郭から、土方の故郷・武州多摩まで駆けて、その遺品を届けたとされている。
新撰組隊士-
中島登と同じく武州多摩の出身。中島とともに函館戦争まで駆ける。坂本龍馬暗殺容疑で糾問所へ送検され、取り調べを受ける。横倉はその獄中で力尽きたとされている。
長州藩士-
吉田松陰の教えを受け、松下村塾で桂小五郎らとともに学ぶ。幕末、尊王攘夷(そんのうじょうい)・倒幕運動(とうばくうんどう)の一員として活動し、新しい日本を目指した。明治維新後は新政府の中心人物となり明治憲法を作る。後に、日本の初代内閣総理大臣に就任。
新撰組隊士-
新撰組の諸士調役(しらべやく)兼、監察の役。特に探索係りとして多いに活躍。近藤勇と土方歳三からの信頼も厚く、近藤が流山で投降した後は、土方の腹心として函館五稜郭までともに戦う。

中島登の幼馴染で、近藤勇や土方歳三と同じ武州多摩の出身。遊郭に身請けされ、京で"音海(おとみ)"と名付けられる。
長州藩士-
吉田松陰の松下村塾出身。長州の代表として討幕をに尽力し、薩摩藩と薩長同盟を結ぶ。明治維新後は木戸孝允として明治政府の礎を築く。
西南戦争の最中に病死。明治維新の樹立と、新しい日本の未来に生涯を捧げた。
徳川幕府御家人・政治家-
長崎海軍伝習所で、蘭学や航海術を学ぶ。蒸気船・咸臨丸でアメリカへ渡り、帰国後は神戸に海軍学校を設立。坂本龍馬などの土佐藩士が弟子となる。後に江戸城の無血開城に成功し、海軍大輔および海軍卿に任命された。
土佐藩士-
吉田東洋に抜擢され、土佐藩の要人となる。戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。
後に、立志社を立ち上げ、自由民権運動を進め、自由党の総理・内務大臣となった。
新撰組・三番隊組長-
戊辰戦争にて旧幕府軍に従い新政府軍と戦うが、流山での近藤勇の斬首、函館五稜郭での土方歳三の死を経て、新撰組の終わりを知る。
明治維新後は、警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊の特別編成・抜刀隊に所属して西郷隆盛軍と戦う。
新撰組・副長-
鬼の副長といわれ多くの隊士から恐れられていた。同郷の近藤勇・局長を筆頭とした組織作りに尽力した。戊辰戦争では、旧幕軍側の指揮官として各地を転戦し、蝦夷共和国では軍事治安部門の責任者となる。戊辰戦争の最後の戦場になった函館五稜郭で、新撰組の想いを背負って戦死。
新撰組・局長-
もともとは武州多摩の農家の生まれだが、同門の土方歳三・沖田総司らとともに上洛し新撰組を旗揚げ。局長として江戸幕府の安寧に尽力した。鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れるも、「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」と名前を改め再戦。隊長として甲州へ出兵するが、流山にて新政府軍に包囲される。自らを犠牲に政府軍本営に出頭し、斬首の処刑を受ける。

作・演出:西田大輔
テーマソング:花村想太「終わりある旅」
作詞:花村想太 作曲:坂詰美紗子 編曲:Motokiyo
挿入歌:
・平義隆「遅咲きの蒼」作詞:西田大輔 作曲:平義隆 編曲:内田敏夫
・平義隆「淡き花散りゆく前に」作詞・作曲:平義隆 編曲:内田敏夫
・vague「いろはにほへと」作詞:shie、Yu 作曲・編曲:Yu
美術:乘峯雅寛
照明:大波多秀起
音響:前田規寛
衣裳:雲出三緒
ヘアメイク:小林麗子(raftel)
演出助手:梅澤良太
舞台監督:清水スミカ
制作協力:Office ENDLESS
宣伝美術:岡垣吏紗(Gene & Fred)
宣伝衣裳協力:
主催・製作
大阪公演主催


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